三吉氏墓所


 三吉氏墓所は、現在も比叡尾山城跡の東側にある光源寺跡地にあり、この墓地に足を踏み入れると、かつて三次盆地を拠点とし、備後の国に君臨した三吉氏の栄華の歴史に思いを馳せる事が出来る。三吉氏は、藤原鎌足の後裔、藤原兼範が近江から備後国三吉に下向し、その子兼宗が三吉大夫を称したのにはじまるという。

 戦国時代三吉氏は、備後の国人領主として大内氏に属し、三次盆地畠敷の北側にある比叡尾山城を拠点に三次地方を領していた。そして安芸国吉田庄の毛利氏と同盟・交戦を繰り返していたが、天文二十二年(1553)、第16代の三吉隆亮(たかすけ)は父致高とともに毛利元就.隆元父子と参会して忠勤を勤める起誓文を提出し、以後毛利氏に属した。

 隆亮の時代、その所領は八万石に及んだといい、備後における強力な大名となった。そして一族の三吉某の息女(隆亮妹とする説もある)は毛利元就の側室となっている。永禄二年(1559)には備中、同五年には石見に出陣するが、元就死去後の元亀四年(1573)、嫡子広高とともに、元就・隆元以来の盟約を確認する起誓文を再度毛利輝元と交換するなど、毛利氏の配下にあっても、依然として自律的な性格を有していた。隆亮は天正十六年(1588)に死去し、現在でも三吉氏墓所にある隆亮の墓石から、その記述を読み取る事が出来る。

 隆亮の嫡子広高も父とともに度々尼子氏と戦い、のちに毛利氏に属した。広高は天正十九年(1591)同じ三次盆地の比熊山に比熊山城を築き、そこに拠点を移したため比叡尾山城は廃城となった。


右横:比叡尾城主三吉安房守隆亮墓  左横:天正十六戊子歳五月十六日逝
  

 
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