私の帰る場所 (前)


「ん‥‥?」
ポツっと手に冷たい物が当たる。
「雨降ってきたな‥‥‥。」

買い出しに出かけていたユーリは、荷物を両手で抱えながら空を見上げた。
灰色に曇った空からは、ポツ、ポツと雨が落ちてきた。
足元を見ると、次第に地面が濡れていくのがわかる。
一雨降りそうだと思いながら、荷物が濡れないようにしっかり両手で抱え込む。
「こりゃ、急いだ方が良さそうだ。」

ユーリは小走りになりながら、皆の待っている宿屋へと急いだ。





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「やれやれ、ただいまっと。」
急いだお陰で、本格的に雨が降り出すまでには宿屋へ付く事が出来た。

「あ!お帰り、ユーリ。」
買い出しから戻ったユーリの声に振り返ったカロルは、そのままパタパタと走り寄ってきた。
「あれ?濡れてる?」
「ああ、何か雨降ってきたみたいで、急いで戻ったんだけどな。」
そういえば髪の毛や服が少し湿っているなと思ったが、ユーリは大して気にもせず荷物をテーブルに置くと、そのまま自分も椅子に座った。
「あれ?」
(居ねぇな‥‥‥)
一通り周りを見回してみたが、真っ先に駆け寄って来て「大丈夫です?」と言ってくれるであろうはずの彼女の姿が見当たらない。
キョロキョロしているユーリを見て、ジュディスが声をかける。
「どうかしたの?」
「エステルは?」
「そういえば‥‥‥さっき、すぐに戻ると言って出たきり、帰って来ないわね。」
ジュディスが窓の外を見ながら答えると、レイヴンもそれに便乗して答える。
「そういや、何だか深刻な顔してたのよね‥‥‥嬢ちゃん。」
「出てくるって、一人でどこに行ったの?危ないじゃない!」
それに食いついたのはリタだった。
無事にアレクセイの手から救出したものの、まだ身体も万全ではないだろうエステルが、リタは心配でならないのだ。
「あたし、ちょっと探してくる!」
「待て!リタ!」
立ち上がったユーリの声に引き止められる。
「何よ!」
「お前はここで待ってろ、オレが探して来るから。」
「何言ってんのよ!あたしも行く!」
今にも駆け出して行きそうなリタの肩に、ジュディスがそっと手を置く。
「リタ、雨も降って少し寒くなっているから、ここは彼に任せて、私たちは暖かい物でも用意して、二人の帰りを待ちましょう?ね?」
そう言ってジュディスになだめられると、リタも「しょうがないわね‥‥」と呟きながら渋々諦めた。

「アンタに任せるから、ちゃ、ちゃんと見つけて来てよね!」
「わかってるって。」
相変わらずツンとした態度のリタを見ながら、ユーリは苦笑いをした。
カロルも近寄ってくると、心配そうにユーリを見上げる。
「ユーリ、気をつけてね。」
「ああ、大丈夫だ。」
「ほいっ、青年。」
「ん?あ、ああ。」

レイヴンに投げ渡された傘を手にして、ユーリは再び宿屋の外に出た。





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外に出ると、さっきよりも降り出した雨の音が響いている。
雨のせいか、先程まで賑わっていた街並みも今は人々は疎らで、早足で家路に急いでいる人ばかりのように思えた。
ユーリが歩く度に、ピチャっと足元の水が跳ねる。

「こりゃ、早く探さねぇとな‥‥‥。」
この雨の中で彼女が濡れてなければいいんだが‥‥‥と思いながら、ユーリはひとまず傘を差して辺りをぐるっと見回す。
(とは言ったものの、あいつどこに居んのかね?)
探して来ると言って出てきたものの、ユーリにはエステルがどこに居るか検討がついているわけではない。
「エステルのヤツ、バカな事考えてたりしねぇよな‥‥‥。」
あんな事があった直後で、すぐに気持ちを切り替えられるとは思っていない。
(でもオレは、あいつを殺さずに済んで、本当に良かったと思ってる)
切りたくないものまで切ってしまう手になってしまって、また切らなければ‥‥‥殺さなければならないと覚悟は出来たつもりだった。
最後まで諦めるつもりはなかったが、それでももう、どうしようもなくなってしまったのなら、他の誰かじゃなく、自分自身の手で彼女を止めるつもりだった。
彼女に“殺して‥‥”と言われた時は‥‥‥‥大切な人を手にかけなければならないと決めた時は、自分で決めたとはいえ、本当に胸の引き裂かれる思いだった。

(だから‥‥‥エステルを失わずに済んで、本当に安心したんだぞ!)

「‥‥‥‥‥らしくねぇな‥‥‥。」
一人になるとあれこれ考えてしまう。
「気付かなけりゃ良かったかもしれない‥‥‥な。」

彼女が大切な人だと気付いたのはいつだっただろうか‥‥‥。

最初はなりゆきだったが、二人で一緒に帝都を飛び出してから、気付けばいつも彼女は傍で笑ってくれていた気がする。
それまで自分の抱いていた“貴族”に対するイメージを塗り替えてしまう程の、純真無垢なお姫様。
初めて見るもの、聞くものに、物珍し気に色んな反応をする彼女を見ているのはとても微笑ましく、一緒に居るのが楽しかった。

そして‥‥‥自分の犯した罪を知っても尚、この汚れた手をとって受け入れてくれた。

一人でフェローを探しに行こうとする彼女を止めたのも、結局自分が彼女と一緒に居たかったからだ。
アレクセイに連れ去られて離れてしまっていた間は、どうにも調子が出ず、すっきりしない日々が続いた。
彼女が傍に居ないだけで、こんなにも気持ちが苦しいとは思わなかった。
困っている人を放っておけず、他人の事を優先して自分が傷つく事も厭わない、心優しいお姫様。

たぶん、好き‥‥‥‥なんだと思う。

「エステル‥‥‥。」
空を見上げて呟いた声に答えるのは、ザーッという雨音だけ。
(今のあいつを一人にさせちゃダメだ‥‥‥)
「いや‥‥‥‥‥オレが一緒に居たいだけかもしれねぇな‥‥‥。」
不安がおし寄せる感じがして、嫌な予感さえしてくる。
自分の事は後回しにして他人を優先する彼女の事だ。
どこかで一人で、自分を責めているのではないだろうか?

そして、ユーリのこういう感はたいてい当たる。

「エステル‥‥‥。」

もう一度名前を呼ぶと、ユーリは雨の中を走っていった。





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「濡れてないです?」
「ニャーン。」
膝の上に乗せた黒い猫が小さい声で鳴いた。
「ふふっ、暖かいですね。」
エステルは黒猫を優しく撫でると、目を閉じて気持ちよくゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてきた。


一人で色々考えたくなって、宿屋を出てきたエステルは、細い路地裏で黒猫を見つけた。
首輪もあり、毛並みも綺麗なので飼い猫のようにも思えるが、こんな寒い雨の降る中で一匹ちょこんと座って鳴いて居たのが、何だか自分に似ているような気がした。
呼ぶと走り寄ってきたので、そのまま膝の上に乗せて今に至る。


「本当に‥‥‥これで良かったんでしょうか‥‥‥‥?」
エステルはポツリと呟くと、黒猫の頭を撫でながらゆっくり空を見上げる。
丁度上に建物の屋根があり、雨宿り状態になっていて直接雨が当たる事はないが、建物の間から落ちてくる雨が跳ね返って少し冷たい。
かなり長い時間居るせいか、よく見れば服や髪も多少湿っている感じがする。
「わたし‥‥‥‥‥生きてます‥‥‥‥。」

(死んだっていい?!二度と言うなよ!!)

あの時、本気で怒ってくれたユーリに、更に追い討ちをかけるように“殺して”と言ってしまった事。
皆を傷付けたくない思いで、ユーリに辛い選択をさせてしまった事。
皆を‥‥‥ユーリをこの手で傷付けるくらいなら、自分が死んだ方がいいと思ったのは本当で、その時ユーリがどんな思いで覚悟を決めてくれたのかを思うと、このまま皆の‥‥‥彼の傍に今までどおり居てもいいのだろうか‥‥‥自分の居場所はここにはもうないのではなかろうか‥‥‥と不安になって、半ば逃げるように宿屋を飛び出してきたのだ。

(それでも皆と‥‥‥‥ユーリと一緒に居たいだなんて、我侭なんでしょうか?)


「‥‥‥っ‥‥ユ‥‥‥リ‥‥。」
じわじわと瞳に溜まった涙が溢れて零れ出す。
エステルは、思わずぎゅっと黒猫を抱き締めると、ミャーと鳴き声が帰ってきた。
「あ‥‥‥ごめ‥‥‥なさ‥‥っ‥‥。」
「ニャ〜ン?」
自分を抱き締める力が強くなり、黒猫が見上げる。
静まり返った中でザアザアと打ちつける雨の音が、こんなにも心地良いとは思わなかった。

できるなら、この雨と一緒に自分も流れて消えてしまいたい。

「ごめん‥‥‥なさい‥‥‥‥。」
エステルは掠れそうな声で呟くと、黒猫をもう一度ぎゅっと抱き締めた。